村長あいさつ (下條村長 金田憲治)
●はじめに
6期24年の長きに渡り村政を担い健全財政と少子化対策で注目された伊藤喜平前村長の後任として平成28年7月から村の舵を取っています。
2018年の、国立社会保障・人口問題研究所が発表した将来推計人口によると、本村は2045年には31.8%減の2626人となっています。この試算に接し、改めて人口減少対策は急務と痛感し取り組んでいるところです。
●村の歴史
室町から戦国時代にかけ、地方豪族として名を馳せ、文武両道に秀いでていた下條氏は、下條の地に吉岡城を築き約110年にわたってこの地を治めました。吉岡の集落には城下町の面影が色濃く残っていて、往時を偲ぶことができます。
その後、明治22年二つの村が合併して下條村が誕生しました。これまで合併話は何度か持ち上がったものの、その都度自立の道を選んできて今日を迎えます。
●村の位置・地勢、
長野県の最南端下伊那郡のほぼ中央に位置し、車で飯田市から20分、三遠南信自動車道天竜峡ICから5分の距離にあります。下條山脈の東麓・天竜川の右岸に広がっていて、総面積が38.12k㎡と、県下の77市町村の中で4番目に小さな村です。
標高332m~828mの間に34の集落が散在し、約7割が山林です。
●変わりゆく南信州地域
南信州地域は計画で2027年リニア中央新幹線開業で東京から飯田まで約45分、名古屋からは約27分で来れるようになり、時間的には都会の一部になるといっても過言ではありません。また、三遠自動車道が整備されれば、浜松市からは大幅に時間が短縮されます。
これにより、大都会とこの地域間でヒト、モノの流れが劇的に変わり、新たなライフスタイルやビジネススタイルが生まれる可能性があります。
これを絶好のチャンスと捉えて地域の発展に繋げるには、各市町村の特性を最大限活かしながら、南信州が一体となった取組みが必要で、地域住民がより住みやすく、都会の人も移り住みたいと思うような地域づくりを目指しているところです。
村も心が和む原風景を残しつつ、新たな環境に適した地域をつくっていかなければと考えています。
●村の真骨頂
村は、農閑期に「道役」という共同作業を行う慣習がありました。生活道路、側溝、河川など公共の場の整備に無償で労力を提供するものです。
しかし、高度成長になると、それらの作業も徐々に行政の仕事へと移行し、それにつれて共助の精神もしだいに薄れていきました。
村は平成4年頃、200万円以下の小規模工事は住民が作業を受け持つ「資材支給事業」を制度化しました。今ではそれも定着し「道役」の精神が復活したのは喜ばしい限りです。
この制度は村が資材を支給し、地域住民が作業を行なうもので、施工個所の受益者が3人以上いることが条件です。当然、人件費分のコストが減小しますが、その上に自ら考え、汗を流して作った施設には愛着がわき、そして親睦が深まって共助の精神が甦るのですから、この制度の効果は絶大です。コロナ渦でイベントの開催が困難ですが今後もこの伝統が持続するよう取り組んでいきます。
●これからの取り組み
今まで取り組んできた子育て支援に未満児などへの更なる支援拡大や新型コロナウイルス感染症への社会経済対策に取り組むと共に最近、梅雨期や台風期の集中豪雨が増加傾向にあり、命と暮らしを守るため村の強靭化を計画的に推進して参ります。
また、飯田市に隣接する国道151号線沿いの窪み地にリニア工事から発生する土、115万㎥の埋め立てを予定しています。リニア・三遠南信自動車道の開通を見据えた村や周辺市町村の発展に波及するよう、埋立てた跡地を利活用すると共に道の駅「そばの城」のリニューアルとその周辺一帯の整備も合わせた計画づくりに取り組んでいきます。
●おいでなんしょ
村外から下條に移住した方に聞いてみますと「下條は住みやすいに」という声が多く聞かれます。
そんな村の基幹産業は、リンゴ、梨、市田柿などの生産で、これまでは農業中心でしたが、平成27年の国勢調査によると、一次産業が22%、二次が31,3%、 三次が46.7%と二次、三次へとシフトしてきています。
施設では、そばの城、飯田カントリーゴルフ場、秋桜の温泉などが集客を担い、医院、診療所、歯科医も整っています。
文化面では、江戸時代から続いている下條歌舞伎と下條吹奏楽団の定期公演や村の「カッセイカマン」をはじめとするローカルヒーローが全国から集まるイベントも定着しました。
また、中央アルプスと南アルプスの間に広がる飯田市街地など伊那谷を一望できるビューポイントの極楽パノラマパーク(標高994m)があります。
それに我が村は、ごく自然におもてなしができる気風を備えています。是非、下條村へ、おいでなんしょ。